深田 上 免田 岡原 須恵

幻の邪馬台国・熊襲国 (第4話)

5.邪馬台国の傍証(ぼうしょう) ― 銅鏡 ―

 傍証とは間接的な証拠という意味である。幸いなことに、魏志倭人伝には、邪馬台国の地がどのあたりであるかのヒントを与えてくれる記述がある。

 一つは、「又特賜汝・・銅鏡百枚・」(さらに特別に・・銅鏡百牧・・を与えよう)という記述である。その銅鏡が見つかり、見つかった場所が分かれば、そこは有力な邪馬台国の候補地となる。
 二つ目は、「種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵」(や麻を植え、蚕を育て、紡いで細い麻糸、綿、織物を作っている)である。これら稲作農耕の遺跡が発掘され、絹の織物片の出土地が分かれば、そこは邪馬台国に関係する地と考えることができる。
 さらに、こんな記述もある。「兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃」(武器は矛、盾、木の弓を用い、弓の下を短くして上を長めにしている。竹の矢に鉄の鏃(やじり)、骨の鏃を用いる)である。武器である矛や剣、及び鉄鏃の出土数の多い所が邪馬台国か、武器貯蔵、ないし生産や供給の地であることになる。

 まず、銅鏡についてである。現代の鏡は、光の反射をよくするために、銀をガラスの裏側にメッキしたものが主流で、ポリエステルなどの表面にアルミニウムなどの金属を蒸着(じょうちゃく)させた軽いものもある。銅鏡は、銅合金の鏡で、表面が鏡面になるほど磨かれ、姿形を映してくれるものである。動物に鏡を見せると、自身の顔形だとは判断できないのか、突いたり嗅いだりする。アマテラスも同じようなしぐさをしたと古事記にある。天岩戸に隠れて出て来ないアマテラスに天児屋命(あめのこやねのみこと)が鏡を見せたところ、鏡に写っている自分の姿を、自分とは別の貴い神だと思って身をのり出した。そのすきに、天手力男神(アメノタヂカラヲ)が手を掴み取って岩戸の外へ引きずり出した、云々である。その後、
アマテラスは、鏡を皇孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に与え、自分の霊代(たましろ)として永遠に祀るよう伝えた。それが今の伊勢神宮のご神体、八咫鏡(やたのかがみ)とされるものである。この八咫鏡がどのようなものなのか、第8話で詳しく述べることにする。

 金属製の鏡が誕生する前は、雨上がりの水たまりや桶に貯めた水面に自分の姿を映していた。水鏡(みずかがみ)である。金属製の鏡の中で、最古のものは今から約2800年前のエジプト王朝の鏡とされるが、日本へは、弥生時代の始め頃、中国から伝わった。よって、アマテラスが写った鏡の話は、弥生時代以降の話だということが分かる。金属鏡は銅が主であるが、銅といっても純銅ではなく銅に錫(すず)をいれた合金(青銅:ブロンズ)である。なぜ、錫が入っているかというと、錫を入れることによって融点(溶ける温度)が下がり、鋳造しやすく、硬くて傷つき難くなるからである。ただし、錫が多いと脆くなり、割れやすくなる。割れているものやひびのある鏡が出土しているのはそのためである。当時の鏡の目的は「姿や形を映す化粧道具」というよりも、貴人(きじん)の宝物であり、祭器であり、巫女(みこ)が行う占術(せんじゅつ)や呪術(じゅじゅつ)用具として使っていた貴重品であった。これらの鏡は、すべて中国からの渡来品で、邪馬台国があった時代、約1800年前の魏や晋時代の鏡が最も多く出土しているのは福岡県である。

 まず、晋の時代の鏡(晋鏡)であるが、晋(西晋)の都は洛陽(らくよう)であった。その洛陽の墓から出土した代表的なものが図11中央の「位至三公鏡(いしさんこうきょう)」という鏡で、魏志倭人伝に記載されている「銅鏡百枚」ではないかと言われているものの一つである。この「位至三公」の意味は、大きくなったら古代中国の三大官職(太師、太傅、太保)の位につけるようにという、子の出世・成長を願った親の祈願文字だそうである。この鏡の出土地が明白な数は25個ほどであるが、そのうちの7個が福岡県、5個が佐賀県、大分県で1個、邪馬台国畿内説の候補地である奈良県ではゼロである。

銅鏡
三角縁神獣鏡:景初三年銘鏡
雲南市の神原神社古墳
位至三公鏡
唐津市浜玉町谷口古墳
蝙蝠座内行花紋鏡
高松市石清尾山古墳群
図11.「銅鏡百枚」の候補鏡とされる古鏡の例

 魏の時代に作られた魏鏡で、「蝙蝠鈕座内行花文鏡(こうもりちゅうざないこうかもんきょう)」という鏡も卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」ではないかとされている。この鏡の地域別
出土分布も、先の晋鏡と同様で、福岡県や宮崎県など九州からの出土が約半数を占めている。この鏡の名前は文字通りで、紐を通したり手で持ったりする「紐(ちゅう)」という丸く出っ張った部分が蝙蝠(こうもり)に囲まれように描かれているいることから、その名がついている。図11の右端がその鏡である。図11の左端は、後述する三角縁神獣鏡で、島根県雲南市の神原神社古墳(古墳時代)から出土したものである。

 図12は、魏や晋時代に作られて倭国(日本)に持ち込まれ、古墳などから出土した府県別の出土数である。これらの鏡は、邪馬台国時代の三世紀、中国の魏や晋で作られて倭国(日本)へ持ち込まれた銅鏡であり、これまた魏志倭人伝の「百枚の銅鏡」ではないかとされているものである。この図の原典は、邪馬台国の会主宰、安本 美典氏が公表された資料であり、これを基に、出土地が明白なものだけ選択して、筆者が作図したものである。この図から明らかなように、魏や晋時代の鏡が一番多く出土している福岡を中心とした地域は邪馬台国の比定地として有力な物証ということになる。しかし、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)の出土数は、奈良県が最大で、兵庫県、大阪府、京都府など近畿圏での出土数が他を圧倒し、畿内が邪馬台国である考える歴史家や考古学者の根拠の一つとなっている。

出土数
図12. 邪馬台国時代の魏晋鏡と三角縁神獣鏡の府県別出土数

 畿内の出土数が多いというだけでなく、「三角縁神獣鏡」が重要視される訳は、この鏡が制作された魏の年号「景初三年」が書かれているからである。この「三角縁神獣鏡」というのは、縁の断面が三角形であり、鏡面の裏面外周には鋸歯文帯や櫛歯文帯があり、その内側に神獣や海獣などの霊獣や神仙像などが描かれている鏡である。この鏡は、景初三年の前の年、景初二年(238年)六月、卑弥呼は魏に対して使いを送り、贈り物をしたい旨を打診していることが魏志倭人伝に書かれている。その年の12月、魏の天子は女王 卑弥呼の要望に沿い、魏の正始元年(240年)には、今度は魏が邪馬台国へ使者を送り、女王としての地位認証状や印綬を授けている。

 ところが、この鏡はほとんど邪馬台国時代の3世紀(235~245年)より150年も後の古墳時代遺跡から出土しているのである。そこで、邪馬台国畿内説に異を唱える研究者は、弥生時代の鏡が150年も後の古墳時代の墳墓から出てくるのは、古代中国から持ち込まれたものではなく、倭国(畿内)で作られたからではないかというのである。その根拠は、三角縁神獣鏡が本家の中国では一枚も発見されていないということもあるが、説得性のある反論は、あの「邪馬台国はなかった」の著者、古田 武彦氏の論である。

 魏から邪馬台国の女王、卑弥呼に贈られた「銅鏡百枚」に該当する鏡ではないかと話題となっているものが他にもある。紀年鏡 (きねんきょう)がある。紀年鏡というのは、製作した時の年号が明記されている鏡のことで、大阪府高槻市の安満宮山(あまみやま)古墳から出土した「青龍三年鏡」もその一つである。青龍三年は235年、卑弥呼が魏との交流させた5年前であり、235年製の鏡をもらった可能性は高いというわけである。しかし古田 武彦氏は、「龍」という漢字の旁(つくり)が三世紀以前の魏や晋の時代とは全く異なることから、倭国の畿内で作られたものとしている。作られたものは大和王権の象徴として、または従属の証として地方豪族へ下賜(かし)したものというわけである。ちなみに、「旁」というのは漢字の右側、左側が「偏」である。

 「銅鏡百枚」を魏の国からもらったのは三世紀(240年頃)なのに、わが国で出土するのは150年~200年後の古墳時代遺跡である。この理由として、畿内邪馬台国説に異論を唱える研究者から、三角縁神獣鏡は魏の国からもち込まれたものではなく、国内で製作されたものであるという主張があることを紹介した。ところが今度は、邪馬台国畿内説の研究者から、有力な論証が唱えられた。

 それは、京都大学の考古学者である梅原 末治教授や小林 行雄教授らの「伝世鏡論」というものである。「伝世鏡」とは、製作後、長年にわたって使用・保持したのち古墳に副葬された銅鏡のことである。なかでも、考古学者の小林 行雄氏は、長年にわたって使用されたかどうかは鏡に鋳出されている文様の磨滅(手ずれ)で分かると主張した。これに対して、伊都国歴史博物館の初代館長であった原田 大六氏は、「手ずれによる磨滅は、硬度の高い白銅鏡に対してはありえないことで、文字文様の消失は鋳造欠陥にほかならない」と反論した。このあたりの摩耗とか鋳造とかは工学的な分野なので、その真偽を明らかにするために筆者も、実証実験結果を基にて議論に参加することにした。その結果の詳細は、専門的になるので別項(第6話~第7話)で詳しく述べる。

<つづく>  
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